武蔵村山市の概要
武蔵村山市は、多摩地区の北部に位置し、西は瑞穂町、南は立川市、東は東大和市、北部は狭山丘陵をはさんで埼玉県所沢市に隣接しています。市を象徴する狭山丘陵は、市北部を西から東へ続き、この丘陵には村山貯水池(多摩湖)・山口貯水池(狭山湖)や、緑あふれる公園などがあります。土地は丘陵のふもとから南へかけて次第に低くなり、住宅地と畑(茶・野菜・果樹園など)が広がっています。市内には残堀川と空堀川が北から南東に流れ、主要道路として、青梅街道・新青梅街道・江戸街道などがあります。また、古くからの機業地で、江戸時代から昭和初期までは、村山絣という木綿の織物の一大産地でした。しかし、他産地との競争に敗れ、村山絣は衰退しました。その後、伊勢崎などから新しい技術を導入し、絹織物に活路を見出し、村山大島紬のブランドを確立させました。
武蔵村山のあゆみ
武蔵村山の歴史は、狭山丘陵を発祥の地として、数万年前の旧石器時代にさかのぼります。狭山丘陵は水が豊かで、当時の人々は飲み水には困らず、自然に恵まれた環境の中で生活していたと考えられています。狭山丘陵の南斜面からは、縄文時代から奈良時代にかけての土器や石器が数多く発見されており、当時の生活をうかがえます。平安時代の終わりには、村山七党といわれる武士団のひとつの「村山党」が定住し、この頃「村山」という地名が現れるようになりました。
江戸時代の武蔵村山は、中藤村・横田村・三ツ木村・岸村の4ヶ村が幕府や旗本に支配されていました。人々は農業を営み、粟・ひえ・麦を中心とした農作物を生産していましたが、水田が少なかったため、幕府に納める年貢の米がなく、お金で納めていました。そのため、養蚕・織物・炭を江戸に運んで売るなど、農業以外の副業をする必要がありました。この養蚕は、江戸時代の中頃から次第に盛んになっていきました。その後、農業の開発が盛んになってくると、古くから住み慣れた土地を離れて、新しい土地を開墾し、村をつくっていきました。
明治政府のもとでは、村山は韮山県に属し、神奈川県に編入された後、明治26年(1893年)に東京府に編入されました。大正時代には、村々を合併しようという動きが大きくなり、大正6年(1917年)に3ヶ村が合併し、東京府北多摩郡村山村となりました。また、村山貯水池(多摩湖)の工事が始まり、武蔵村山と立川を結ぶバスも開通しました。そしてこのころ、伝統工芸である村山大島紬の生産が一段と盛んになり、家々からは機織りの音が絶え間なく聞こえていました。
昭和29年(1954年)の 町制施行により、東京都北多摩郡村山町となりました。さらに、昭和45年(1970年)には市制が施行され、武蔵村山市となりました。その後、日産自動車村山工場をはじめとする工場や、三ツ藤住宅・都営村山団地などの造成によって、人口が一挙に増加し、「農業と織物のまち」から「ベッドタウン」に変化していきました。武蔵村山市は、「緑輝く快適ステージ ふれあい文化都市むさしむらやま」をスローガンに掲げ、心から住んで良かったと思えるまちづくりを目指しています。
武蔵村山の名前の由来
武蔵野台地の西辺は、古くから村山郷と呼ばれていました。「村山」という地名の起こりは、狭山丘陵の峰々を指した「群山(むれやま)」が訛って「村山」になったといわれています。昭和45年(1970年)の市制施行の際に、「村山市」となるはずでしたが、山形県に同名の市があったため、緑豊かな武蔵野の「武蔵」を冠して「武蔵村山市」となりました。
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武蔵村山市立歴史民俗資料館 |
| 住所: |
武蔵村山市本町5-21-1 [地図を見る] |
| 電話番号: |
042-560-6620 |
| 開館時間: |
9:00〜17:00 |
| 休館日: |
毎月第1月曜日、毎月第3水曜日(祝日の場合は翌日)、12月28日〜1月3日 |
| 入館料: |
無料 |
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